好きなものを愛でていれば、人生おわる

どう転んでも生きにくさにのまれない方法を模索中。ジャンル特化ではなく、模索結果に沿った作品を紹介。毎週木・日で更新予定。

ゆるく考えよう ~ ちきりん

今回は、ちきりんさんの『ゆるく考えよう』(イースト・プレス/2013年)を紹介したい。

ちきりんさんをよく知らない人は、極めて合理的であったり、意見をきちんと表明したりするイメージから、(いわゆる意識高い系ではなく)本当に意識の高い、とても頭の良い方だと思っているかもしれない。これはたしかにそうである。

 

それでは、ちきりんさんが「何に対して意識が高いのか」はご存じだろうか。

それは「毎日を気分よく楽しく過ごし、おいしいものを食べて、できる限り長い時間を自分の好きなことに使って過ごす」ことに対してである。

いわずもがな、こういう生き方をしたいという人が大多数だろう(もちろん私もその一人)。そのように考えた際、何かヒントを得るために手にとる本として、今までの私は一部を変えるような実用本やビジネス本が多かった。例えば、レシピの本、インテリアの本、タイムマネジメントの本など。

こういう本ももちろん好きだし、参考にもする。しかし、本気でこういう生き方に近づきたいと考えた時には、根本(価値観、考え方)から変えていかなければ意味がない。

ちきりんさんは、すべての表現物を通して、まさにこの根本に関する具体的な提案をされている。理想的な生き方の実践に向けて徹底的に考え続け、体系化された思考やその方法を見せてくれる人として最高峰だと私は思っている。

書籍では、その体系化された思考や方法を一冊ごとに別テーマで丁寧に示してくれているため、生きる方法を考える際のバイブルとなっている。

ブログやTwitterにおいても、もちろんこの軸は常に一貫しており、その思考プロセスやそこから導きだした意見などを発信されている。

 

『ゆるく考えよう』は、上記のような生き方を求め、「社会が押しつけるガチガチの固定観念に縛られず、自分らしく、ゆるく生きる」ための方法を紹介している本である。

文庫版のまえがきにおいて「自分の考えが当時(単行本執筆時)と全く変わってない」と書いていたが、現在の文章や活動を知る限りでは、今でも一貫した考えを持たれているように感じる。よってこれを読めば、ちきりんさんの考えの大枠がほぼ掴めるようになっているはずだ。

この本で特に紹介したい点を2つあげたい。

 

1.具体的かつ合理的な方法が掲載されている

「助言の聞き方」「何かを選択する際の基準の決め方」「ローンの組み方」「アドバイスの正しいもらい方」など、実生活に直結したそのまま使えるような方法の数々が紹介されている。


例えば「アドバイスの正しいもらい方」では、
・助言者の多くが「本人が好きなことをするのが一番」と思っているので、本人が望んでそうな方向に答えを持っていく
・相談者についての情報がないと、助言者は「自分のような人間にとって一番よいと思える答え」を教える
・質問をして得られることは、その相手の持つ知見のうち「質問者が思いついた範囲のことだけ」 

という「なるほどたしかに」と思える事実を基に、

  1. 必ず両方の選択肢を質問文に入れる
  2. 質問するのではなく自分を理解してもらう
  3. 最後に相手のいいたいことをいってもらう

というアドバイスのもらい方を提唱している。

この一例を見ても、ちきりんさんが根性論や理想論ではなく、地に足の着いた合理的な考えを持たれていることがわかると思う。


2.自分基準で生きるということへの追及

「毎日を気分よく楽しく過ごし、おいしいものを食べて、できる限り長い時間を自分の好きなことに使って過ごす」とは、すなわち「自分基準」で生きるということである。

「社会が押しつけるガチガチの固定観念に縛られてはいけない」ということを繰り返し示してくれているのがこの本である。

 

私は、小さい頃から周りの「普通」に違和感を抱くことが多く、変わってると言われることもしょっちゅうで、それがとても嫌だった。

それなりに年齢を重ねるまでは、普通に憧れて(というよりは変わってると思われたくなくて)、大多数に紛れるためにはどうすればいいか=「世の中の大多数はどういう考えを持って生きているのか」を注意深く気にしていた。

気にしてはいたがどうしても違うという感覚は拭えず、なおかつ頑固なので迎合もできず、そうしている間に自分と同じような考えの人もたくさんいることを知り、今では自分の考え方や好きなものに対しては、きちんと自信を持っている。

もしも自分が「普通」に対して違和感を抱くことのない人だったら、頑固ではなかったら。苦痛は少なかったかもしれないが、今のような自分でつくりあげた自信は持てず、考えるということをおろそかにし、人の気持ちも考えようとしなかったかもしれない。

 

「あなたはあなたのままでいい」という類のメッセージは、対面でも、表現を通してでも、様々な場面で使われる。そのメッセージがささるかどうかは、発信する人、される人によっても違うと思う。

私の場合、ちきりんさんのそのメッセージは、大いにささった。

軸があって考えが一貫していること、感情に訴えるのではなく合理的であること、多数派にも常に疑いの目を向けること、自分で考えたところに自分があること。そういうことの上に、このメッセージは成り立っている。

ニュートラルに、かつ考え続けたうえに成り立つため、流されることを徹底的に厭うという面においては、厳しいものかもしれない。

この本のタイトルは(社会の固定観念という縛りから)ゆるくなろうという意味であり、「自分自身が生きる」ということに対しては、至極真面目な本である。

その先にある理想の生活へ、その向かっている最中も含め、楽しく生きたい人はぜひ。

 

ドラマ『それでも、生きてゆく』(坂元裕二)

今回は、最も好きなドラマである『それでも、生きてゆく』(フジテレビ/2011年)について書きたい。

映画同様、私の中でドラマに求めている何かがあり、それが何か掴めていなかったのだが、このドラマがまさにそれであった。

 

1話目を観た時点で、このドラマの世界観にすっかり圧倒され、詳細を調べたところ、原作がないオリジナル脚本のドラマであることを知った。ドラマの面白さって脚本家によるところが大きいのかなと思い始めていた当時の私は、この作品によって、すっかり脚本家・坂元裕二さんのファンとなる。

このドラマ以降、およそ1年に1度放送されていた坂元さん脚本のドラマは欠かさず観ており、放送されている3ヵ月間、そのドラマが大きな生きがいになっていた。

 

それでも、生きてゆく』はもちろんのこと、坂元さん脚本のドラマに共通する最大の魅力は「わかりやすさを求めない」ことだと思っている。

ここ数年の流行りなのか、ドラマが放送された翌日、そのあらすじをネタバレ込みで紹介するようなネット記事が増えた。坂元さんのドラマもそのような記事になることがあるけれど、それを読むと「間違っていないけど、そうなんだけど、大事なのはそこじゃないんだよ!」というもどかしい気持ちになる。

わかりやすさを求めないとは、ステレオタイプに頼らないということだと考えている。そして、ステレオタイプに頼らないとは、本当の人間を表現するということだと思っている。

 

それでも、生きてゆく』は、小学生の妹が殺害された被害者家族、殺害した男子中学生の加害者家族を中心に、その事件の15年後を描いた物語である。

はじめは被害者と加害者双方の心理を描いたドラマとして興味を持って観始めたのだが、「そういうドラマのイメージ」として持っていたものを、このドラマは第1話から軽々と飛び越えていった。

第1話では、妹を殺害された兄(深見洋貴:瑛太)に加害者の妹(遠山双葉:満島ひかり)が自分の正体を隠して会いに行く。加害者家族は15年間嫌がらせを受け続けており、その犯人が被害者家族なのではと考えたためだ。

釣り船屋をしている洋貴のところへ一人で出向いた双葉は、正体を隠している挙動不審さも相まってか、洋貴から「自殺志願者」ではと疑われてしまう。

お腹が空いたという双葉を自宅に招くが、自殺志願者と思い込んでいる双葉に接する洋貴もまた挙動不審である。お互いぎこちない状態のまま、カップ焼きそばやおにぎりの話をしている二人を見て、とても良い意味で「何だこのドラマは」と衝撃を受けた。

ストーリーの筋とは全く関係のない、しかも飄々とした日常会話がドラマで繰り広げられている。しかも、こんなにも苦しくて辛いテーマのドラマの中で。

二人の会話の雰囲気はずっと変わることがなく、毎週繰り広げられる日常会話の積み重ねによって、二人の関係性や人となりが自然に伝わってくるのがとても心地よかった。

話を進めるための、あるいは役割に応じた行動や会話に頼らず、人をじっくりと丁寧に伝えていく坂元さんのドラマは唯一無二であり、純文学的だなと思う。

 

そしてこのドラマは、全登場人物の演技があまりに凄い。演技ではなく、もうそのままである。それぞれの人物がそのまま実在しているといわれても不思議に思わないぐらい、一人一人が画面の中でただ生きている。

上記で日常会話について書いたが、ストーリーの肝となるような会話も、もちろん最上級である。日常を送りながらも、事件を忘れる瞬間の無い心の靄が、他に類を見ないぐらい真摯に、丁寧に、正直に表現されている。

ここまで感情移入できるドラマは、きっとこの先も出てこないと思えるぐらい、苦しみや辛さ、そしてそのような中からも生まれる決意や希望などを一緒に感じていった。

『脚本家 坂元裕二』(ギャンビット/2018年)において、瑛太さんや風間俊介さんは、(このドラマの中で)今もう一度やれって言われたらできない演技をしているという趣旨の話をしている。このドラマに出ていた俳優さんたちにとっても、通常を超えた何かがあったことを思うと、やはりとんでもない作品だったんだなと思う。

 

一話ずつ記事を書きたいぐらい思い入れがあり、伝えたいことだらけのドラマである。今回は、ネタバレをしたくないのと、映像そのものを見ればこの凄さは何も言わなくても伝わると考え、全体にまつわる思いだけを書かせて頂いた。

 

坂元さん脚本大好き人間としては、今回この作品を見返すことで、他の作品にも共通して出てくるものたちをたくさん発見できたのも面白かった。

動物に関する詳細な説明だったり、アニメ名言の引用だったり、ジュディマリの曲がでてきたり、食べ方へのこだわりだったり(唐揚げにレモンよろしく、チャーハンにソース!)。

 

『脚本家 坂元裕二』(ギャンビット/2018年)にて、坂元さんは以下のように話している。

ドラマが終わったあとも「あの人たち、今もどこかで生きてるんじゃないだろうか」って思えるようなドラマをつくること。それが僕にとって一番大事にしていることで、それが連ドラのお客さんと交わしている約束なんだと思ってる。

私は、まさにこういう部分に強く魅かれたのだ。

ドラマでも他の媒体でも、坂元さんの作品をこれからも追い続けていきたい。

 

 

 

毎日朝5分でお弁当を持っていける方法

今日は、②としてあげた自活の術のうち、

「毎日朝5分でお弁当を持っていける方法」を紹介したい。

 

最初にいっておくと、私は料理が大嫌いだった。

以前は月1~2回料理をすればいい方で、職場へお弁当を持っていくようになったのも、ここ1年ちょっとの話である。

今でも料理が好きなわけではないのだけれど、少なくともハードルが下がった。そしていろいろ作ってみたいという好奇心も持てるようになった。

その理由は2つある。

(1)キッチンが使いやすくなった

引っ越しを機に、キッチンがガスコンロからIHヒーターへ変わった。

掃除がしやすくなったことも利点ではあるけれど、火を使わないことが、不思議なことに心理的な負担を取っ払ってくれた。

今までは「料理するぞ」という気合いを満員電車に30分乗り続ける時ぐらいの力で入れないといけなかったのが、何となくぬるっと始められるようになった。

こんなことで心理的な負担が減るなんて思いもしなかったが、ちょっとしたことで負担を大きく減らせることもあるもんだなと思った。

(2)電子レンジを活用した簡単料理のブログを知った

それが、「つくりおき食堂」https://mariegohan.com/ である。

このブログが無かったら、私は今でも料理に悩み苦しんでいたと思う。

このブログを知ってから、レシピ本にも注目するようになって気づいたことなのだが、最近の料理本の流行りは「いかに楽できるか」である。

出版社は、世の流行を汲んで本を出版している。女性の社会進出によって、ルンバや食洗機などを使って家事を自動化して時間を短縮しようとしていることに伴い、料理の時間も短縮したいというニーズが増えるのは当然の流れだと思う。

私は社会進出うんぬんの前に、自分のしたいこと以外はとにかく楽したい人間なので、もっと前からこういうブログとか本があったら良かったのに、なんて思ったりもする。

その点、このブログは最高だ。こんなに料理って簡単にできるんだと思われてくれる、私にとっては革命的なブログだった。

まりえさん(つくりおき食堂の中の人)は電子レンジを多用する。IHヒーターなのでもう火は使っていないけれど、それよりもさらに楽で、心理的な負担が少ないのが電子レンジである。

ここで紹介されている料理は、電子レンジだけで完結するものがほとんどで、素材1種類&準備2分&レンジ3分で完成するようなレシピがわんさか紹介されている。

そしてちゃんと美味しい。フライパンや鍋を使わずに、こんなに味のしみこんだ美味しい料理が作れるのかと感激した。電子レンジで簡単につくったような料理にはとても見えないものも、たくさん掲載されている。

 

このブログと出会い、またお弁当に関する記事などをネットで読み漁り、私が実践しているお弁当づくりの方法は以下の通りである。 

【準備編】

<必要なもの>

・水筒

・薄型タッパー(高さがおかずカップ程度のもの)

・おかずカップ(電子レンジ対応)

・2段お弁当箱(電子レンジ対応)

サランラップ

①時間のある時に、「つくりおき食堂」のレシピを中心におかずを5~6品作る

②おかずカップをタッパーに敷きつめ、そこに作ったおかずを盛っていく

③タッパーごと冷凍する(冷凍する時は横置き、凍ったら縦置きで省スペース)

④ご飯を炊き、お弁当箱の下段サイズでサランラップに包んで冷凍する

 

 【当日】

①タッパーからおかずを3品選び、お弁当箱の上段につめる(約1分)

②お弁当箱のまま、上段のみを電子レンジでチン(約40秒)

 ※冬場:この間に電気ケトルで水を沸騰させておく

③スペースがある場合は、冷凍しておいたブロッコリー等で埋める(約20秒)

④ご飯をサランラップのまま、電子レンジでチン(約1分30秒)

⑤ご飯をお弁当箱の下段につめる(約30秒)

⑥夏場:麦茶ポットから飲みものを水筒へ注ぐ(約30秒)

 冬場:ティーバッグを水筒へ入れ、熱湯を注ぐ(熱すぎるので少量の水を加える)

    少し置いてからティーバッグを取る(約1分)

 

水筒まで説明が必要だっただろうか…と自分へつっこみを入れながらも、ここまで済ませて5分で完了するので合わせて掲載してみた。

 

冷凍できるおかずかどうかは、明記されていないものについては、完全に自己判断である。私はそこまで食感や味にこだわりがないため、あまり気にせずにほぼ冷凍している。また、おかずカップは、全て同じ大きさで揃えている。その方が、タッパーにも弁当箱にも収まりがよく、扱いやすくなる。

おかず3品については、野菜系2品・肉魚系1品と決めている。お弁当箱の大きさによって品数は変わってくると思うが、私の場合は3品でちょうど良いので、3品がちょうど入りそうな大きさのものしか選んでいない。

 

お弁当を持っていくようになってから、生活費が浮くし、栄養バランスもそれなりに良いし、いいことづくめである。

食べたいものは夕食で食べればいいし、生活費や楽さを重視したい人にはおすすめの方法である。

 

(まりえさんは本も出されているので、最後に掲載しておきます。)

忙しい人専用 「つくりおき食堂」の超簡単レシピ (扶桑社ムック)

忙しい人専用 「つくりおき食堂」の超簡単レシピ (扶桑社ムック)

 

 

『嫌われる勇気』(アドラー心理学)

今回は、岸見一郎さん、古賀史健さんの共著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社/2013年)について書きたいと思う。

出版から6年経ったいまでも、本屋で平積みされているのを見かけるぐらい売れている定番本である。

アドラーは、世界的にはフロイトユングと並ぶ心理学の三大巨頭のひとりとしてあげられるらしいが、日本ではまさにこの本が火付け役となっている(少なくとも、私はこの本でアドラーの考え方を知った)。

 

私にとっては、今まで読んだ「幸せに生きるための考え方」を説いたものの中で、最も腑に落ちるのがこの本であった。

今まで世間の提示する幸せへの考え方に違和感を抱き続けていたが、それを気持ちよく払拭してくれるような本である。

私が共感する表現者の多くが、そしてそういうものを享受しながらできた私自身の価値観が、実はアドラー心理学に繋がっていたことを知った。

「ひとりの例外もなく、いまこの瞬間から幸福になれる」というアドラーの考え方は、その言葉だけを聴くと、あまりにありふれた、しかも少々うさんくさい言葉のように思えるかもしれない。

しかしその内実は、非常に理にかなっている。よくある幸せに生きる方法に関する本とは、一線も二線も画している。

 この中から、私が特に気に入った4つの考え方について紹介したい。

 

目的論

アドラー心理学では「トラウマ」を明確に否定している。

何かできないことがある場合、それは過去の「原因」があるからできないのではなく、いまの「目的」に沿って、過去の経験に「できない意味」を与えるだけだという。

できないことを認めたくない(目的)から、「できない意味」を与えているといい、この考え方を「目的論」と呼んでいる。

何か容赦ない考え方だな…というのが最初に知った時の感想である。

しかし、この目的論は裏返すと「過去はいっさい関係ない」という考え方のため、今ここから、ただ自分が自分の人生を決めればいいというシンプルな話だという。

 

なるほどたしかに、と納得がいった。

今まで「あの人は○○だから、□□なんだ」みたいな会話に対して、本人でもないのに勝手に決めるのはどうなんだろうと心の中で思っていたけれど、自分自身のことでさえ、原因なんて存在しない、というよりは、勝手に意味を与えていただけということだ。

辛い出来事があった時、心の底から辛いとその時々で本当に思ってきた。けれどそれに寄りかかり、意味を与えて安心している部分が0では無かったことも、また確かに事実である。

その辛さ自体に関して、理解しあうことはこれからもしていきたい。言い訳や弱音を吐いてしまうことも、時には辞められないかもしれない。

だけど少なくとも、動けない理由として、何かを自ら言い訳にするのはかっこ悪いかも、ということに気づけたのは良かったなと思う。

 

課題の分離

アドラー心理学では、たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、「これは誰の課題なのか(選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か)?」という視点から、「自分の課題」と「他者の課題」を分離する。

そして、他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させないことが、対人関係の出発点だという。

人は、他者の期待を満たすために生きているのではないし、他者もまた、あなたの期待を満たすために生きているのではない。他者がどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているか、つまりどれだけ自分の欲求を満たしてくれるか、という承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていないという。

あくまで課題を分離したまま、全ての対人関係を「横の関係」として捉え、叱ることも褒めることもしない(評価しない)。かつ援助が必要な時には、精いっぱいの援助を行い、その先にまでは踏み込まないスタンスをアドラーは紹介する。

 

これも、多いに共感する。以前ブログで紹介したダメをみがく①にも通じる考え方であるが、課題へ踏み込む行為は、単なる相手への深追いである。

相手への興味や好意をはかる材料として、「どれだけ相手に踏み込んでいるか」を気にする人も多いが、それは違うということをはるか昔にアドラーが示してくれていたことに対し、とても勇気づけられた。

 

 幸福とは、貢献感である

アドラーは、対人関係のゴールとして「共同体感覚」という概念をあげている。これは、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることをいう。そのためには、自己受容、他者信頼、そして他者貢献が必要だという。(この3つはひとつとして欠かすことができず、いわば円環構造として結びついている)

他者貢献については、それが役立ったかを判断するのは他者の課題であるため、介入できる問題ではない。よって「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚、すなわち「貢献感」を持てればそれで良く、自らの価値を実感できるという。

 

この考え方で生きることができれば、考え方ひとつで誰でも幸福になることができるわけなので、本当に最強だなと思う。

「共同体感覚」は、アドラー心理学の中で最も難しい概念といわれているらしい。「共同体」とは、過去や未来、さらには動植物や無生物までが含まれるらしく、たしかにとても抽象的で、なかなか飲みこみにくい。

よって次の考え方とあわせて、考えたことを書きたいと思う。

 

人生とは連続する刹那である

人生が山頂にたどり着くための登山だとしたら、人生の大半は「途上」になってしまう。アドラーは、登山のように「線」としてではなく、点の連続、つまり連続する刹那として生を捉えている。

いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きることで、ふと周りを見渡したときに「こんなところまで来ていたのか」と気づかされることもあるが、どんな場所についても途上で終わったわけでは無い。

われわれの生は「いま、ここ」の中にしか存在せず、過程そのものを結果とみなし、「いま、ここ」を真剣に生きることで、人生は常に完結しているというのがアドラーの考え方である。

 

「いま、ここ」のみを注視するのは、(まったく詳しくないのだが)仏教や瞑想と繋がる考え方だなと思った。

文脈からは外れてしまうが、歴史は連綿と続いていて、現在にも繋がる思想や技術を体系的に深く理解するためには、歴史を知る必要があるんだなということを感じた。こうやって知りたいことが増えていくのが、本をはじめとして誰かの考え方を知っていくことの楽しさでもあるなと思う。

「いま、ここ」を楽しいという思いで満たし続けていけば、楽しい人生だったと死に際に思えるというのは、私の軸となる考え方でもある。そうなるためには、何に接し、何を摂取し、何を考えて自分をつくっていくかが重要だと考え、それをまとめて記録するための媒体が、このブログでもある。

方向性は間違いではない、というか間違いかどうかは誰にもわからないけど、とりあえず頼もしい味方がいるとわかった箇所である。

 

先ほどの貢献感の話、そしてこの本の全体的な考え方より、アドラーの言いたいことは「いま、ここ」の「目の前にいる人、もの、時間」に対して真摯に接することが、幸福かつ自由に生きるための方法である、ということではないだろうか。

「真摯に接する」というのは本当に難しいことであり、そのためにはどうしたらいいかについて、これからもこの本を中心にして考えてみたい。

アドラー心理学については、私もまだまだ断片的な理解に留まっており、この考え方を本当に理解して生き方まで変わるようになるには、「それまでに生きてきた年数の半分」が必要になるとさえいわれている。

現段階では、生きやすさに一番近づける論理的方法のような気がするので、気長にゆっくりと理解して染みこませていければと思っている。

 

『嫌われる勇気』は、ソクラテスの思想をプラトンが書き残したがごとく、青年と哲学者の先生(哲人)による対話篇形式を採用している。

上記で紹介したような考え方(点)について、青年は率直な疑問を投げかけ、それが対話を通して破綻無く繋がっていくため、全ページをじっくり読んで咀嚼することで、より納得感が増すのではと思う。

誰にでも実践でき、新たな考え方を示してくれるすばらしい本である。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

 

スタンリー・キューブリック監督の映画作品

私は、音楽・漫画・本・ドラマに関しては、好みや各々に求めるものを昔から何となく理解していた。

しかし映画については、それを知るのに長い時間がかかった。

もちろん面白いなと思う映画はたくさんあったのだが、見た後に何日も頭から離れずに反芻し続けたり、何度も繰り返して見たりするなど、他のコンテンツで感じたような熱量を持って接することのできる作品を見つけられていなかったのだ。

 

 映画を熱狂的に好きな人が多いこの世の中、私の好む作品は絶対にあるはずだと思い、有名な映画作品のDVDを見ていく中で出会ったのが、スタンリー・キューブリック監督である。

最初に観た作品は『時計じかけのオレンジ』だった。

何の前情報もなく観始めたため、残酷で不快なシーンにおののくこともあった。しかし観終った後は、何かすごいものを観たという衝撃が残り、いつまでも気持ちが高ぶっていた。

ストーリーに対する驚きはもちろんのこと、何よりもその音楽と映像美の素晴らしさに度肝を抜かれた。コントラストの強いカラフルで奇抜な色使いでできあがった映像はとにかく綺麗で、こんな残酷な世界には関わりたくないと思いながらも、惹かれてやまない美しさがあった。そこにクラシックをアレンジした数々の曲が信じられないぐらい効果的に流れることで、感情は一層揺さぶられ続けた。

観終ってから作品について調べてみると、何とこの作品は1971年に公開されていたとのこと。こんなに芸術的で完璧な作品が、1971年には既に存在していたのか。

 

その後、彼の作品を全て観ていったが、どれも音と映像の美しさにうっとりするものばかりであった。何度観ても飽きないどころか、ずっと流し続けていたいぐらいの吸引力がある。

メロディーのない不協和音や何かをたたく音などもとにかく美しいし、モノクロ映像でも素晴らしい。

 

この記事を書こうと思い、最近は『シャイニング』を観返したのだが、特に前半の一つ一つのシーンがたっぷりかつじっとりしていてとても見応えがあった。会話の間、三輪車を漕ぎ続けるシーン、顔をアップでただひたすら写し続けるシーンなど、閉鎖された冬のホテルの静けさの中に自分も迷い込んでいる気分になれるぐらい(前半は)静けさと不穏さを感じられる映画だった。

派手でスピード感のある映画も見応えがあって好きなのだが、間で魅せるような映画の美しさにはとにかくうっとりしてしまう。

このシャイニングの世界についても、もちろん関わりたくはないのだが、あの静謐で内装も完璧な美しい空間には憧れてやまない。

 

私が映画に求めていたものは、音や映像が圧倒的に美しい作品、間で魅せるような作品であったことが、キューブリック監督のおかげでわかった。

キューブリック作品を観ている時の感覚は、美術展などで好みかつ圧倒されるような作品を目の前にした時の、心が満たされる感じにとても近い。

映画手法については全くわからないのだが、キューブリック監督はそういった方面でもとにかく完璧主義な人だったようで、だからこそあんなに美しい作品が生まれたのかと納得がいった。

 

その後も映画を観たときに惹かれる部分は、そのような要素であることが多く、今気になっているのは、フランスのヌーヴェルヴァーグ期の作品たちである。少し観ただけでも好みのものがたくさんあったので、少しずつ観ていきたい。

こうやって自分のまだ知らない魅力的なものが世の中にたくさんあるなんて、とても嬉しいし時間が足りない。これからもどんどんすばらしい作品に浸り続けたい。

 

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星野源さん

『引っ越し大名!』公開記念、そしてワールドツアー開催決定記念として、今回は星野源さんについて書きたいと思う。

源さんについては、人となりや活動が広く知れ渡っているし、大勢の人に愛されているうえに、コアなファンもとてつもなく多い。

私はコアなファンといえるほど活動を追っているわけではないのだけれど、好きな部分がとにかくたくさんある方なので、私なりの好きなところを書かせて頂きたい。

 

まず、佇まいが好きである。

私は、人の表情やしぐさに惹かれることが多い。

話す言葉と同じぐらい、もしくはそれ以上に、人の気性が出る部分だと思う。

その点、源さんは完璧だ。

温かさ、繊細さ、芯の強さなどが、柔らかくも凛とした佇まいに現れている。

ドラマや映画の宣伝でバラエティ番組に出た際の、主張しすぎるわけでもなく、かといって表面的な会話でもない自然でニュートラルな姿勢は、いつも素敵だなと思う。

 

次に、源さんのつくる音楽が好きである。

技術的なことは勉強不足のため、とても感覚的な話になってしまうけれど、

私が好きだなと思う音楽は、

・予想できる音を超えた音が詰まっていて密度が濃い

・至極シンプルで研ぎ澄まされた感じを受ける

・ドラムが気持ちいい ものであることが多い。

源さんの音楽には、そういう要素が満載である。

マリンバやMPCなどいろいろな楽器を使い、幅広いジャンルの音楽をミックスしながら、自分にしかできない音楽を創ってくれるところが大好きである。

楽しそうに音楽を奏でている姿を見ると、音楽って本当にいいよなと改めて思う。

 

そして、考え方がたまらなく好きである。

前述のとおり、源さんの音楽が好きな私は、数年前に初めてワンマンライブへ行く機会に恵まれた。人となりはもちろんそれなりに知っていたのだが、より詳しく知りたいと思い、エッセイを読み漁った。

その結果、琴線に触れる部分があまりにも多く、おこがましいことは承知のうえで、求めている世界が似ている仲間だと思った。

中でも私的にぐっときた言葉を、三つ紹介したい。

 

『そして生活はつづく』(文芸春秋(文庫版)/2013年)より

自分に嘘をついてまで、この人たちの全部を好きでいようとした理由は、今となってはよくわからない。(中略)今では、発表する曲の全てを好きになれる音楽家なんていないし、全公演最高におもしろい劇団なんかありえないと、当然のように思っている。どんな人でも、生涯を通じて完璧なものを作り続けることはできないし、しかも、それが全て自分の好みに当てはまる確率はとても少ない。でもそれは悪いことじゃないし、当たり前である。なぜそのことがわからなかったのか。自分に嘘をつき続けてきたのか。私は今でも、本当によくわからない。 

この本は、源さんの生活や価値観がつまっている作品である。

当時から変わったこともあれば、変わっていないこともあるだろうけど、価値観については変わっていないことの方が多いのではと、何となく思っている。

その中でも「逃避できる世界への深い愛情を持つ」というところは、源さんにとって大きな軸のひとつなのではと考えているし、共感している部分でもある。

中高時代の源さんが、好きな人たちの全部を好きであろうとした姿は、愛の表現だったのではないだろうか。「絶対的な味方の、絶対的な味方でいたい」というとても純粋な思いから来ていたんじゃないかな、と答えが出ないのをいいことに想像した。

私自身を鑑みると、後は「好きなものを嫌いになるのが怖い」ということもある。好きなものに支えられている自覚がある分、その対象に何も感じなくなってしまった時が怖い、という感覚である。

好きという感情のわからなさ、のような哲学的な問題についてつい考えてしまう人が好きな私は、このような問いを読者に投げかける源さんにますます興味を惹かれた。

 

『蘇る変態』(マガジンハウス/2014年)より

死ぬことよりも、生きようとすることの方が圧倒的に苦しいんだ。生きるということ自体が、苦痛と苦悩にまみれたけもの道を、強制的に歩く行為なのだ。だから死は、一生懸命に生きた人に与えられるご褒美なんじゃないか。(中略)地獄は相変わらず、すぐ側にある。いや、最初から側にいたのだ。心からわかった、それだけで儲けものだ。本当に生きててよかった。クソ最高の人生だよ。まったく。

これは、1回目のくも膜下出血の手術を行った後の言葉である。

生死を争う大手術の後に、生きることの喜びとか、この世のすべてに感謝とかではなく、生きることの方が圧倒的に苦しい、と悟るのが源さんなのである。あぁ、そういう人だから信頼できるんだよなと思う。

そして、苦痛と苦悩にまみれているとしても「生」を自ら選び取ったという感覚。大病を経験したことのない私は、この感覚自体には何となく覚えがあるような気がしながらも、やはり本当にはわかっていないのだと思う。

苦痛と苦悩の中だからこそ一層輝くような、生きることの中にしかない何かを追い求める覚悟のようなものを感じ、とてもぐっときた。

 

『いのちの車窓から』(KADOKAWA/2017年)より

 赤いサンタ帽をかぶり、ペットをつれた、焦げ茶色のボロボロのコートを着たおじいさんとすれ違った。手に繋がれたひもの先には、小さいサンタ帽をかぶったタワシがあった。ペットではなかった。おじいさんは、ただタワシをずるずると引きずって歩いていた。何を言うわけでもない、派手に動くわけでもない、ただまっすぐに交差点を歩いていた。喧噪と人の波にゆっくりと混ざっていくその背中は、なんだか「伝われ」と叫んでいるように見えた。

源さんのエッセイで一番好きなのが、この本である。

今までよりも文章がシンプルになっているためか、心の機微がじっくりと伝わってきて、何度も胸を打たれた。源さんってこんな人なんです、ということを全国民に読ませて知らせたくなるぐらい、人への思いやものごとの捉え方に対する温かさが伝わってくる作品である。

その中で引用したのは、横浜アリーナでのライブを終えた1週間後のクリスマスに渋谷で見たという光景の描写だ。

こういう風に世界を見ているなんて、多くの人を魅了できる存在になるのは必至である。人としての美しさが根幹にあるから、源さんの表現するものは心地が良く、これからも多くの人を救い続けるんだろうなと思う。

 

以上三選でした。

 

以前宮本さんの記事を書いた時も思ったけれど、一人の人物を一記事で紹介するのは無謀ですね。

書ききれないし、まとめた伝えたつもりが、うまく伝えきれない。

いずれ一作品ずつなど、ゆっくり紹介していけたらなと思う。

 

そして生活はつづく (文春文庫)

そして生活はつづく (文春文庫)

 
蘇える変態

蘇える変態

 
いのちの車窓から

いのちの車窓から

 

 

さくらももこさん

2019年8月27日。さくらももこさんの訃報から1年になる。

上記Twitterの通り、私はさくらさんに多大なる影響を受けてきたので、そのことについて書きたいと思う。

 

最も大きな影響は、「読書すること」を生活の楽しみとしてスムーズに受け入れるきっかけを作ってくれたことである。

小学生時代、私は本を読むことが習慣になっていた。それは勉強のためなどの立派な理由ではなく、暇な時間に襲ってくるむなしさに耐えられなかったためだ。

遊べる友達がいない日などは、本当に絶望的な気持ちになっていた。ゲームもおもちゃも家にはほとんど無く、漫画もおこづかいではたくさん買えない。YouTubeなどはそもそも存在していない時代、図書館や図書室で無料で借りられる本は、大きな救いになっていた。

小学5年生になり、児童書ではなく大人向けの本を読みたくなってきていた頃、夏休みに母方の実家へ遊びに行くことになった。

移動中に暇つぶしできるものを求め、少し背伸びをして買ってもらったのがさくらももこさんのエッセイ『ももこの話』である。

この本は子供時代のことをエッセイにしたものであるため、内容はもちろん『ちびまる子ちゃん』に近い。いつも見ている漫画やアニメよりも、より辛口でシニカルな雰囲気に大人っぽさを感じながら、とても楽しく読んだ。

「大人が楽しんで読むような本を、自分も楽しく読めた」という当時の私にとって大きな自信を持たせてくれたのが、さくらさんのエッセイだったのだ。自信をつけてからは読書の幅が広がり、本の楽しさを知っていくことができた。

実際には、中高時代は部活などで時間が満たされていたため、本をほとんど読んでいない。それでも読みたい本があった時に抵抗なく読むことができたり、大学生になって読書をスムーズに再開できたりしたのも、この初めの一冊があったからだ。

 

ほとんど本を読まなかったと書いたが、さくらももこさんのエッセイだけは、中高時代もずっと追い続けていた。

さくらさんは、面白い会やイベントをたくさん企画していて、その様子がとても楽しそうで羨ましかった。また、雑貨・旅行・宝石などのわくわくする世界をたくさん見せてくれた。改めて漫画やエッセイを読み返すと、表紙や扉絵が凝っていてとても可愛らしく、さくらさんの好きな世界観で彩られているのがわかる。

大人になったら、面白い会を企画して楽しんだり、可愛いものや綺麗なものに詳しくなって、好きなものが自然に増えていったりするものかと思っていたけれど、実際そんなことは無かった。こんなに多趣味で好きなものが多い人はなかなか珍しく、さくらさんの好奇心と行動力の凄さを知った。

実は、私が可愛い・綺麗と感じるものはさくらさんの好みに近いところがある。もちろんさくらさんほどではないのだが、可愛いものや綺麗なものを追い求める好奇心を含め、少なからず影響を受けているのではないだろうか。というより好奇心については、そういう人生の楽しみ方があって、そのためには自ら動いて見つけなきゃいけないよということを教えてもらったと思っている。

 

節目の誕生日の過ごし方については、影響というよりも、まさにそのまま実行させてもらった。

私は、エッセイ『たいのおかしら』の「二十歳になった日」という話がとても好きである。さくらさんは、二十代はひとりで決断し、ひとりで人生を切り開いてゆかなければならない年代を迎える気がしており、二十歳の誕生日には、ひとりで、まっすぐに続く道をとにかくまっすぐに歩いてみたそうだ。その後、そのことが大きな糧になったと書かれていた。

三十歳の誕生日を迎えるにあたり、当日はどうやって過ごそうかなと考えていた時、私の頭の中にはその話が浮かんでいた。何かヒントが見つかるかもと思い、その話についてインターネットで調べてみると、エッセイ『まる子だった(文庫版)』には、糸井重里さんとの対談が載っており、節目の誕生日に関する話をしていることを知る。

単行本でしか読んでいなかったので、さっそく文庫版にて対談を読んでみたところ、「節目の誕生日の過ごし方は、その後10年を象徴するのだ」という話をしていた。

自分自身を思い返せば、(特別な決意などをせず臨んだが)二十歳の誕生日の過ごし方やその時の感情が、不思議なことに、たしかにその後10年を象徴していた。

さくらさんが節目の誕生日を毎回特別な思いで過ごしてきているように、私もこうなりたいという方向性を持って三十歳を迎えてみようと考え、当日は有給をとり、自分のしたいことを中心にひとつひとつの行動をかみしめて過ごした。

自己暗示のようなものかもしれないが、今のところ、やはりこの考え方には信憑性を感じている。

 

その他、ホテルでの缶詰生活に憧れたこともあるし、さくらプロダクションという会社の存在を知り、入社することが夢だった時期もある。

シニカルな気分の時には「わたしゃ○○だよ」という口調でしゃべってしまいそうになるし、お年玉の袋が売られているのを見ると「おとーむ…」と条件反射的に思ってしまうし、高橋留美子さんのことは「留美子先生」と呼んでしまう。

 

人生の様々なことを面白がるさくらさんのような人に、小さい頃から影響を受け続けてきたことは、本当に幸運だったと思う。さくらさんが元気で面白いおばあちゃんになって、いろいろなことを楽しんでいる姿をずっと見ていたかったな。

今までの恩を忘れずに、私もいろいろ面白がって生きていこうと思います。

 

ももこの話 (集英社文庫)

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たいのおかしら (集英社文庫)

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まる子だった (集英社文庫)

まる子だった (集英社文庫)