好きなものを愛でていれば、人生おわる

どう転んでも生きにくさにのまれない方法を模索中。ジャンル特化ではなく、模索結果に沿った作品を紹介。毎週木に更新。

本:『とにかくうちに帰ります』(津村記久子) 

 以前、『ダメをみがく』という対談本についてのブログ記事を書いた。
今回はその対談者である津村記久子さんの小説について。
津村さんは、私の考える「理想の小説」をまさにそのまま具現化している方であり、私にとって敬愛する存在である。

読書が好きということには、実は複雑な内実を含んでいる。
その一番の理由は、表現する対象や手段が「何でもあり」なのが、本だからだと思う。
ビジネス書を好んで読む人も、ラノベなどの架空世界を楽しみたくて読む人も、丁寧な暮らしの実現を求めて読む人も、その誰もが、本を読むのが好きな人である。
どんなにニッチだったとしても、人間のすることや考えることを文章化してまとめたものだったら、全てが本になる可能性がある。

一方で、一切の本を読まない人も大勢いる。
話は逸れてしまうけれど、「読書が好き」と話した時に驚かれることがある。
読まない人は、本=文章が難解で、理解できないものという定義を持っている気がする。実際には先述したとおり、本ほど様々なものがあるメディアは無いし、私も難解な本は全然読めない。
「本」に限らないけれど、一つの言葉にこびりついたイメージというのは、条件反射で出てきてしまうものなんだなと実感する。その意味を更新していくことほど難しくて時間がかかることってないよなと思う。

以前どこかで書いたかもしれないけれど、私がなぜ本を好きかというと、自分では考えきれないものを見せてくれる作品がたくさんあるからだ。
例えば、幸せに生きるにはどうすればいいのかと考えた時、それを考えるにあたって参考にできそうな本は限りなくある。
例えば、文字通り「幸せに生きる方法」のような題名を掲げている自己啓発的な本や、「こうすれば上手くいく」といった実践例を示すハウトゥー本がまずあると思う。
私が社会人になりたての時、先々への不安で縋るようにまず読んだのは、こういう類の本だった。
こういう本は、いってしまえば玉石混交であった。
もちろん今の価値観に大事な影響を与えてくれるような素晴らしい本も中にはあった。
しかし、ネガティブかつ懐疑的でひねくれた私にとって、共感も納得もできないものも多く、結局はそもそもの性質の問題なのかという新たな諦念を生み出すだけになった。
世の中で正解といわれているものをなぞったようなものは、世の中の正解に懐疑的な私でさえ予想できるような情報しか得ることができなかった。
その結果、何度も同じ注意をされるとそれが形骸化してしまうように、よく使われる耳障りの良い言葉は、右から左に聞き流すようになってしまった。
(このことは、自分の中では結構問題視している。世の中の正解を、予想できる範囲内だからという理由だけでないがしろにする癖は気をつけたい。このバランスを上手く取れるようになる方法を見つけるのは、今後の課題である。)

一方で、何の目的も持たずに好んで見聞きしたものの中には、私がもやもやと考えていることと同じようなことを上手く言語化してくれていたり、思いもよらない新たな価値観を見せてくれたりする人や作品がたくさんあった。
そういう人や作品によって、私は自分の考えや価値観を創り続け、そういう好みなもので創られていく自分を少しずつ肯定的にみられるようになっていった。
生き方に迷うということは多くの人に発生する問題だと思うけれど、そこで必要になるのは、明確な正解ではなく、自分を肯定するための土台となるものや広い視野だなと実感した。
そしてそれらを構築するものを探せるのは自分だけであって、構築にも長い年月を要する。

前置きでかなりの字数を使ってしまったけれど、私にとって、その考えきれないものを見せてくれる自己肯定の土台となるような作品が、津村さんの小説なのである。
津村さんは、誰も追随できない日常生活を描く小説家だと思う。
冠婚葬祭の行事が重なったてんやわんや状態での動き方、会社のコピー機との付き合い方についてなど、日常の中でもニッチなものを題材にすることが多い。
それらが、淡々と上質なユーモアさで書かれている。
文章の巧拙に詳しくない私でも、とてつもなく巧いことがわかるぐらい繊細で洗練された文章を書かれるので、読んでいてとにかく心地が良い。

『とにかくうちに帰ります』は、ジャンルでくくるならば、お仕事小説になる。
しかし、日曜9時にドラマ化されるようなタイプの話ではない。そういう大きなドラマの影のさらに影で、毎日地道に働く人の短編集である。
誠実さには誠実さで返すような仕事を心がけたり、愛用のペンの行方を気にしたり、スポーツ選手の動向を追ったり。部屋でくつろぎたいという強い感情のもとに大雨の中を歩き続けたり。
津村さんの描く世界を読んでいると、すべての些細な事柄たちは、どれもが面白くて味わい深いものであり、人生を彩っているように感じられる。
人生をそれなりに楽しんでいくには、何が起こるかではなく、何を感じるかが全てだよなぁ、という気持ちになれるのだ。
物語はあくまで架空のものだからという人もいるけれど、その物語を書いている津村さんの心持ちは、おおむね作風通りなのではとエッセイなどを読んでいても感じる。
その心持ちに多大な憧れを抱きつつ、私もこんな世界に身を置いて生きていきたいと心から思う。

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

とにかくうちに帰ります (新潮文庫)

  • 作者:津村 記久子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2015/09/27
  • メディア: 文庫
 

 

本:男性学の本(田中俊之)

私にとって最もいらっとする瞬間とは、上から見下すような態度の人を目の当たりにした時である。
下の立場から噛みつくような悪口は、反骨精神から来るものとしてならば、気にならない。しかし、見下す人の悪口は、自分より下の対象を勝手に設定することで、自分を上げて見せようとする魂胆が気に食わない。
自分の不甲斐なさや不安に向き合うことを避けて、他人を攻撃するなんて、弱くてかっこ悪いと思ってしまう。

おそらくこれは、私がなめられやすいゆえに身についた思考なのだけど、なめられやすい理由の一つは、間違いなく「((昔は)若い)女性」だからだ。
駅ですれ違った時にぶつかって舌打ちされる、職場で見た目のことを言われるなどの話をTwitterで見た際、こういう扱いを日常的に受けている人がたくさんいること、そして嫌だと思うのは自分だけが気にしすぎているわけではないと知った(本当は、当人が嫌に思うかの問題で、同じことで同じ思いをしている人がいるかどうかは問題ではないのだけど)。
この問題については言いたいことがたくさんあるけれど、私は、強く主張すること=問題について共感してもらうための適切な手段と思っていないため、日常ではあまりこういう話をしないようにしている。
それでも「フェミニスト」に何となく嫌なイメージを持っている人がいることについては、どうにかしたい。私はおそらくフェミニストではないけれど、その意見や活動には、応援したくなるものが多い。

一方で、昔から「男性って大変だよな」と思ってきたこともたくさんある。
家では、常に残業続きの父と顔を合わせる時間はとても短かった。
学校では、リーダーを決める時や何らかの順番を決める時には、まず男子が選ばれていた。
男性の中にも明確なカーストはあるようで、下位と認識されてしまった男性は、男女ともにきつく当たられていた。
恋愛においても、もちろんルールはないけれど、何となく男性の方から「男らしくアプローチしよう」という風潮があった。
職場の飲み会などでは、女性よりも男性がターゲットにされ、恋人の有無や容姿などをいじられるような場面をたくさん見てきた。(これは、セクハラという概念がパワハラよりも早く浸透したからかもしれない。今ならば、これはアウトだと思う。)
自分がもし男性だったらしんどいなという場面をたくさん目撃し、当たり前だけど、どちらにしても、楽しいこと・辛いこと両方あるよなと思っていた。

女性としての生きづらさを何とかしたいという活動は話題になっているけれど、男性側はどうなんだろうと考えていたところ、『私がオバさんになったよ』(幻冬舎/2019年)を読み、田中俊之さんが研究する「男性学」という学問があることを知った。
どういう考えの学問なのかを知りたくて読んでみたのが、『男が働かない、いいじゃないか!』(講談社/2016年)『男子が10代のうちに考えておきたいこと』(岩波書店/2019年)である。

前書によると、男性学とは「男性が男性であるからこそ抱えてしまう困難や葛藤に着目する学問」である。
「男とはこういうものだ」という決めつけに対して反論することや、性別にとらわれない多様な生き方の実現をめざすために存在するようだ。
後書によると、ジェンダーとは「社会的・文化的に規定された男らしさ、女らしさ」であり、
「男らしさ」の定義:競争を優位に進めるために求められる特性
「女らしさ」の定義:人と協調して生活するために求められる特性 とのことだ。
規定されたとあるように、ここには普遍的な形態があるわけではない。
しかし、男らしさ/女らしさがそれぞれ競争/協調に対応しているかぎり、男女の関係性は男がリードする側/女はリードされる側になる と書かれていた。

田中さんの仰る男性の生きづらさについてまとめると、以下のようになるかと思う。
・40年正社員として働き続けるのが「普通」といわれていること
 ― 働いていればそれでいいという考え方から、生き方を考える機会がない
 ― 定年後、家庭にも地域にも居場所がない。友人がいない。
 ―(妻が仕事をしていない場合)生きるために、自分が働くしかない現実
・「男らしさ」を求められること
 ― 競争が当たり前という考え方
 ― 弱音を吐けない(
社会の仕組みが、男性が40年働くことを前提に成り立っている。つまり思考と社会の仕組みが互いに影響しあって、成立している)

男性学について認識した結果、様々な点として存在している問題が、線になって結びついていくのを感じた。
全体社会や生活を成り立たせるため「労働によってお金を稼いで納税する」という枠組みが根本にあり、それを成り立たせるため、システマティックにジェンダーが規定されたという前提がある。
この枠組みや規定にそもそもの疑問を持つ人や、つくられた普通から外れて不安や不満を持つ人。そういう人たちがSNSなどを通じて意見を表明してきた結果、様々な問題が共感され、顕在化しているのが現在社会なのだということが理解できた。
各々の問題に対する理解は深まっているけれど、枠組みや規定が前提にある以上、全体を俯瞰したうえでの根本的な解決を目指さなければ、次々と新たな問題が生まれ続けてしまう。
そういった根本的な解決を目指すにはどうすればいいのか。
田中さんは「積極的寛容(自分とは違う価値観を持つ人への敬意と開放性を特徴とするやさしさ)を社会に根づかせていくためには、多様な人がお互いに顔をつきあわせて対話をするしかない」と書かれていたが、これがまさに解決策になると考えた。
聞き手が当事者ではない問題について強く主張をすることは、理解には繋がっても、共感に繋がるとは限らない。
相手の考えを知り、そこから生まれた疑問を投げかけ、そこに至った経緯や感情までを理解しあうといった対話が成り立ってこそ、お互いにとって納得のいく枠組みや規定は構築できないと思う。
そう考えると、日常生活の諸々を含め、本当の意味で対話をすることの難しさ・機会の少なさに行き当たる。
時間も労力もかかるけれど、「本当の意味での対話の方法と機会」を提供するような仕組みがどこかにあってもいいのではと思ったところで、話が飛躍してしまったけれど、この話題はいったん終わりにします。
どんな問題でも、何かについて知れば知るほど、結局はその上位概念の問題に繋がっていることを実感する。どのような場所でも、上位概念を創り出す人はとにもかくにも人格者であってほしいと願う。

男が働かない、いいじゃないか! (講談社+α新書)

男が働かない、いいじゃないか! (講談社+α新書)

 
男子が10代のうちに考えておきたいこと (岩波ジュニア新書)

男子が10代のうちに考えておきたいこと (岩波ジュニア新書)

 

 

映画:『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督)

現在絶賛公開中の韓国映画『パラサイト』(ポン・ジュノ監督)がとても面白かったので、今回はこの作品について書きたい。
『パラサイト』は、2019年カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞しており、韓国映画としては史上初だそうだ。
SNSでもかなり話題になっていて面白そうだなと思い、前情報をほぼ入れずに観にいったところ、とにかく凄まじい映画だった。
ネタバレなしで、面白いなと思った点を書いてみる。

ひと時も目が離せない

この映画の最大のテーマは「貧富格差」だ。
このテーマについて、現実的にかなり細かく表現しているので、何度も苦しくなった。裕福な人が行う悪意のない差別は、もちろん良い印象は受けないものの、高らかに批判するのも何か違うようなものがほとんどである。
ただそこに格差があるというどうしようもない虚しさが、この映画の空気を支配している。
その虚しさを無表情で表していく貧困側家族の演技が、一番印象に残った。

この映画はその重厚な社会的テーマを中心に、サスペンス・コメディ・ホラー・アクション・恋愛・家族愛などたくさんの要素がてんこもりで、かつどの角度から見ても面白くて、とにかく一瞬たりとも目が離せない。
観るのに体力を使う映画のため、観終わった後には「あー映画観た!」という充実感でいっぱいになった。

韓国の住宅事情

この映画の肝は、対照的な2組の家族の住環境である。
日本では見慣れない「半地下」に住む家族と、世界の誰が見ても立派だとわかる豪邸に住む家族の生活模様の往来が主な舞台となっている。

カンヌ大賞作品の舞台「半地下」に見る韓国の格差社会と分断の歴史(FNNプライムHP)によると、「半地下」の居住形態は、韓国に存在する独特のものである。
朝鮮戦争後の1970年~80年代における韓国では、防空壕の役割を果たすために地下室の設置が義務付けられていた。
1984年には、地下施設の定義=2分の1が地下にもぐっていれば良いと緩和され、半地下が爆発的に増加したそうだ。
後に、半地下部屋は居住用として認められるが(実際にはその前から黙認されていた様子)、カビや高湿度などで劣悪な住環境である分、家賃が安い。
よって、「半地下」には建築用語としてだけではなく、貧窮を象徴する存在としての独特のニュアンスがあるらしい。
貧困に関する描写は他にも多々あったけれど、地下という描写を活かしたものは韓国でしか作り得ないものだと感じたので、そういう国特有の事情を知るという面でも海外作品は興味深いなと改めて思った。

共通認識?独特?

住宅事情から話は続くけれど、海外作品を観ていると独特だなと思う場面がふいに出てくる。
独特だなという印象を持った時、
・日本に住み、日本の作品を見慣れている私から見たゆえの独特なのか(その文化圏では共通認識なのか)
・その文化圏にいる人から見ても独特なのか が判別できないところが面白い。

『パラサイト』でも、ネタバレにならない範囲では以下のようなところが気になった。
・半地下側の家族は、成人した子供と親の関係性がとても近い気がした。子供は何歳の設定だろう。韓国では、この距離感が一般的なのか。
・半地下側の長男:ギウは、あるものを大事に持ち続けているけれど、これは韓国にとってはお守りみたいなものなのか。
・戦争に関するギャグや例え話が2か所ほどあったけど、韓国ではよくあるお笑い手法なのか、理解できる例えなのか。

他にも(これらは韓国ではよくある表現方法なのだろうと感じたので割愛するけれど)、ちょっとした描写で見慣れなくて面白いなと思ったものがいくつかあった。
海外旅行に行った際、コンビニなどで日本では見かけないものが置いてあって面白いなと感じることがあるけれど、こういう文化の違いを知った時に出てくる「面白い」という感情はどこから来るものなんだろう。この感情についても、いつか調べてみたい。

 

他にも感想はたくさんあるのだけど「ネタバレをしない」という前提で、映画の感想を書くのって本当に難しい。全体の印象かディテールに対する感想となってしまう。
「この映画は面白い!」と思った度合いを、ネタバレなしで表現することの難しさを再認識した。
でもやはり全ての作品は、ネタバレなしで初めて観た時が、最も面白くて心動かされると個人的には思う。
『パラサイト』は、監督が「ネタバレなしで見てください」とお願いしているようなので、なおさらそのように観てほしい。
(それなのに、Wikipediaにあらすじが最後まで載っていたのはびっくりした。公開中なのに…観る前に開かなくて良かった)
『パラサイト』に刺激を受け、こういうひと時も目が離せなくなる The映画!的な作品をたくさん観たくなってしまった。
こういう映画ってどうやって探したらいいのだろう。好みな監督とか制作会社を見つけると良いのか。
2020年も、すばらしい映画にたくさん出会えると嬉しい。

本:『英語耳』(松澤喜好)

本は本でも、今回は英語の教材の話です。

私は、英語が全くわからない。
勉強=どれだけ頭に詰め込めるか」としか思っていない残念な学生だったので、そもそも他の教科についても、体系的に覚えていることが一つもない。
その中でも、英語は悲惨だった。
とりあえず文法の使い方や単語の意味を必死に覚え、リスニングはごく簡単なものだけ理解して凌いでいた。
しかし、詰め込みで何とかならない科目の筆頭が、私にとっては英語だった。
数学もそういう科目だとは思うが、私は文系のためにそこまで難しい単元を扱っておらず、パズル的なものが好きだったこともあり、苦手意識はあまり無かった。

端的にいって、英語は嫌いだった。
ちょっとでも知らない単語が出てくると、文章全体が途端にわからなくなる。
文法の構造を頭で理解しても、まったく自分のものにはなっておらず、英語で文章を書くことは全くできない。
その結果、大学で受けたTOEICの点数は、履歴書に書く方が損をするレベルだった。
海外旅行でも、モーニングコールを頼めないぐらい、日常会話も全くままならない。
英語を使うような仕事をしたことがない私でも、今まで何十回、何百回と英語は重要だという話は聞いてきた。
勉強した方がいいのかな…という思いが胸を掠めても、現代日本で英語を使える人はあまりに多いし、皆ができることを今さら膨大な時間をかけて身に付けても割に合わないという意見に賛同しながら、ずっと避けてきた。 

そんな私が、なんと今年から英語に向き合い始めた。
私のような頑固な人間は、周りからの同調圧力、外部を基準に生まれる焦りなどから動くことがない。
やはり今回も、私を動かす原動力になったのは、自主性である。
私は、この10年があまりに早く過ぎ去ったことに慄いた結果、自分が享受できるものの範囲をどんどん広げたいと思ったのだった。
「10年があまり早く過ぎ去った問題」は、私にとってはかなり衝撃的である。
10年前からやろうと思っていたのにできていないことがたくさんあると気づいた時も恐ろしかったが、これまでの10年がこういう時間感覚ならば、次の10年は今の倍ぐらいの速さで過ぎるだろうと簡単に予想できた時、「私の人生って、もうあっという間に終わるじゃん」とただ普通に思ったのだ。

人生終わるまでに何がしたいかといえば、ずっと楽しく心地よく気分よく居たいというかなり月並みなことになる。
それを実現させるためには、自分にとっての好きなものを追求し続けたり、行ったことがないけれど気になっている場所へ行ったり、いろんな価値観を知って知見をより広くしたりすることが大事だと思っている。
そのためにとてつもなく有効な手段が、「理解できる言語を増やすこと」だという結論に至った。

とはいえ、今まで全く身につかなかった英語を今さらどう身に着ければ…と思った時に腑に落ちた意見が、「何よりも発音からやり直すことが大事」というものだ。
この考えをもとに参考書を探した結果、見つけたのが『英語耳』(アスキーメディアワークス/2004年)である。
この本は「発音のマスター」を目的としている。「自分の口から出せる音は、容易に聞き取ることができる」(逆もまた然り)という考えのもと、各子音・母音の発音方法を、口の動きなども含め、丁寧に解説している本である。
私は、思春期に流ちょうな発音を恥ずかしく思ってしまい、ずっとカタカナ英語で過ごしてきた。発音については試験にも全然出てこないため、一切知らないというか勉強したことがない。
発音を恥ずかしく思っていなければ…とか、試験勉強という意識をとっぱらって英語を学んでいれば…などと後悔しても意味はない。
とにかく、新年ならではのやる気を携えている今から始めるしかない。

この本には、全ての子音・母音の発音練習用CDも付属されており、素振りのように毎日約20~30分、2~3カ月行うのが良いと書かれていた。
今は、YouTubeでいろんな方が発音方法に関する動画もUPしているので、CDで練習しつつ、上手くいかないところは動画でも口の形などを確認しながら進めている。
発音を丁寧に分解し、お手本CDと同じように単語を発音できるようになると、ちょっと感動する。
カラオケで英語の歌を入れた時に、(カタカナ表記を歌っているのだが)メロディにきちんと合い、それっぽく歌えている時の高揚感と同じ類のものを感じる。
その結果、英語がちょっと楽しいかもと初めて思えている。
まだまだ先は長いけれど、今まで全くできなかったことをできるようになるのは、やはり楽しい。
自分で自分を楽しませてあげるために、今日も明日もまずは素振りを頑張ろうと思います。

英語耳[改訂・新CD版] 発音ができるとリスニングができる

英語耳[改訂・新CD版] 発音ができるとリスニングができる

 

本:『買い物とわたし~お伊勢丹より愛をこめて~』(山内マリコ)

今回はタイトルのとおり、買い物に関するエッセイについて。
山内さんの小説が好きでよく読んでいるが、そもそも山内さん自体に憧れている。
考え方も、映画やお洒落なものへの造詣の深さも、とにかく素敵な方だ。こういうセンスの良さを身に着けたいといつも思っている。
その山内さんが買い物エッセイを出していると知り、今回読んでみた。

この本は、「週刊文春」で2014年春から1年ちょっとの間連載されていたエッセイをまとめた文庫本である。
昨年の12月に大掃除をするにあたって『人生がときめく片づけの魔法』を読み返した私は、ときめかないものをそれなりに捨てていった。
これからは自分がときめくものだけに囲まれて生きたい…という定期的にやってくる物欲を燃やしていた矢先である。
そして、多少値は張ってもずっと使えるいいものが欲しくなるお年頃でもある。
そんな私に、この本はまさにクリーンヒットした。

人がものにこだわる過程を知るのって、何でこんなに楽しいのだろう。
思えば、私は『王様のブランチ』の10万円でお買いものをするコーナーも大好きだし、甲斐みのりさんなどが雑貨を紹介する本も大好きでよく読んでいる。
ちきりんさんの気に入った商品を紹介するブログ(ちきりんセレクト)もとても参考にしている。
たぶん私は、とにかく工夫が好きなのだ。
・限られた資源(お金)をどうやってやりくりしながら、最大限に活用するか
・常に心地よくいるために、自分にとって必要なものは何なのか
を考え続けて実行していくという過程が楽しくて、その過程を見ることが好きなのだと思う。

『買い物とわたし』でも、長く使えそうな財布や服から、下着やタオル、傘などの日用品をこだわって選んでいる様子を読むことができる。
それらを選んだ理由や後日談まで載っているのがファッション雑誌やカタログ類とは異なる部分であり、工夫の過程を楽しむという角度からも楽しめるのがエッセイの良さだと思った。
その他にも、いいと思って買ったのに意外と使わなかったり、物の処分方法について考えたりなど、いろんな視点から買い物について考えるきっかけにもなる本である。
中でも、ネットの進化には改めて驚く。
メルカリやNetflixなどのサブスク動画配信方式は、約5~6年前はまだ浸透しておらず、この本では、それらのサービスに関する基本的な説明も掲載されていた。
普段は忘れがちというか、考える間もなく気がつけば浸透しているけれど、ネットは買い物、つまり日々の生活や価値観にも確実に大きな影響を与えている。

個人的には、『映画の見方』というタイトルのエッセイで書かれていた「タダというのは曲者」という意見にも共感した。
山内さんは、視聴可能期間がタイトなVODじゃないと家で映画を観れないらしい。
HDDレコーダーへの録画やネット宅配のDVDレンタルの場合は、観れずに溜まってしまうと書かれていた(ネット宅配は、延滞金無料という優しさがアダとなったとのこと)。
私の場合、「タダは曲者」に加え、時間の影響も大きいかもしれない。
HDDに入っている映画はどんどん溜まっていくし、Amazonプライムビデオは入会しているものの、観たいものはたくさんあるはずなのに、全然観れていない。
しかしHDDでも、毎週進んでいくドラマの場合は、きちんと消化できている。
これは次が差し迫っているという感覚のためか、視聴時間がネック(ドラマは45分、映画は作品によるけれど120分どっぷりというイメージが定着しているため)なのか。それとも、続きが気になるという心理的作用のためなのか。
ジムなどでも、月額料金を払い続けて、結局1回も行かない月が出てくるという状態はあるあるだと思う。これは、実際には料金はがっつり発生しているけれど「タダは曲者」感覚に陥っている気がする。
このお金・意志・頻度の関係は、いろいろ気になるな。

最後に備忘録として、この本を読んで刺激された私が、まさに今欲しいものを書いておく。

①洗濯乾燥機
家事全般が基本的に好きじゃないめんどくさがり人間なので、家事が楽になるものが欲しい。そこで、洗濯乾燥機である。
掃除機はコードレスのスティック型に変えたところ、コロコロ感覚でかけられてとても楽になったし、茶碗洗いは10分ぐらいの動画を見ながら行うのが習慣になっているので、苦ではなくなった。
となると、私にとって最大の敵は、洗濯物を干すという作業である。
干す時間・空間とも0にできると考えたら、良いことしかない。

②ヴィンテージバッグ
もともとアンティークやヴィンテージものに心奪われる性質なので、アクセサリーや服類、小物などはちょこちょこ集めている。
とても好みなYSLのヴィンテージバッグを、たまたまネットで見つけてしまい、お高いけれど手に入れたい欲がずっと消えてくれない。
質のいいブランドバッグを、新品よりはお手頃、かつ好みなデザインで手に入れられるならば、これは買うしかないのではと思っているところだ。
今は情報収集に勤しんでいるところなのだけど、各ブランドの歴代バッグのデザインをまとめてくれているサイト等がなくて困っている。もう少し探してみよう。

➂白ズボン
ユニクロなどのファストファッション、もしくはバーゲンで服を揃えてきたけれど、そもそも私は「こういう形の、こういう色の、こういう素材の服が欲しい」という想像をしてから買い物に出かけている。
つまりその想像に沿い、かつ予算に見合うものが無い時は、何も買えない。
この予算について、買う量を減らし、少数精鋭で服を買いたい欲に駆られている。
「無難だし安いからと買うのは辞めよう」という何度来たかわからない波が、現在到来中だ。
その第一段が、1年はける真っ白なズボン。これも情報収集していこう。

以上。お買い物について考えるのは本当に楽しい。
「反消費でも消費礼賛でもなく、そこそこまじめな消費者でありたい」という『買い物とわたし』の最後に書かれている言葉がとても好きだ。
私も、好きなものだけに囲まれる生活をめざして、これからも工夫していきたい。

 

買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて (文春文庫)

買い物とわたし お伊勢丹より愛をこめて (文春文庫)

 

本:『断片的なものの社会学』②(岸政彦)

今回は改めて『断片的なものの社会学』について。
先月の記事にて、社会学とはどのような学問かについて考えてみたけれど、この本はそういった一般的な社会学の外側にあるものが書かれている。
著者の岸さんは、社会学者として、あるいは日常的な生活を送る中で、解釈や理解をすり抜けてしまう「ただそこにあるもの」に遭遇することがあると言う。
「そのような世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて」書かれたのが、この本である。

私がこの本を、そして岸さんを知ったのは、雨宮まみさんのTwitterがきっかけだった。好きな人の好きな人が書く文章なので、きっと好きな内容だろうと思って読んでみたところ、やはりとても好きな本となった。
お二人の対談本『愛と欲望の雑談』(2016年/ミシマ社)が出ていることはとてもありがたいことで、お二人の本とあわせて、これからも何度も読み返すんだろうなと思う。

『断片的なものの社会学』は、私がぼんやりと考えてきたこと、そして今後も考えていきたいことがたくさんつまっている。
その中で、今現在の私が特に気になったところをいくつか書き留めておきたい。

自分にラベルを貼るということ

自分という存在をどう表現するかということについて、印象的な場面が二つある。

一つは「自虐的な笑い」について。お笑いには自虐ネタという種類があるけれど、これが日常場面で起こることについて、この本では書かれている。
辛いときの反射的な笑いも、当事者によってネタにされた自虐的な笑いも、人間の自由そのものだと思うと岸さんは言う。
「私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある」という言葉がとても印象的だ。
もう一つは、とある異性装者のブログについて。このブログでは、日記風の短い文章と一緒に、そのブロガーが若い女性の服装で撮影した写真が並んでいるそうだ。
写真は記事のなかで一切言及されることなく、天気やニュースや芸能のことについて書かれ続けている。
両方とも、自分の何らかの特徴や性質が、世間一般から見てマイノリティのラベルだった場合、そのことに対してどう向き合っていくかについての話だ。

私自身、自分があれこれ言われたくない部分に対しては、先回りして自虐をしていた時期がある。私にとっては、結局それは自傷行為のようなものに感じられたため、今では一切やらないように気をつけている。
それはおそらく、私にとっての自虐は「そんなことないよ」待ちだったからだと思う。
自分のことをきちんと見つめた結果ではなく、相手にどう思われるかだけを考えた自虐は、諸刃の剣だった。
気さくに思われることで、周りに人が集まってくることもあれば、自分で自虐しまくってるぐらいだし、こいつは何を言っても傷つかないと思われることもあった。

後者については、初めに読んだときはとても衝撃を受けた。
マイノリティというラベルについて、そもそも無い前提で生きているような印象を受けたのだ。もちろんご本人には様々な葛藤や思いがあって、そのうえでの行動なのかもしれない。けれど私には「ただ可愛く撮れたから載せる」というような、非常に純粋な自己顕示欲で動いているように感じられ、そのことをとても強くてかっこいいと思った。

自分のことを自分でどう扱うかは本当に千差万別だと常々思っている。
自分自身とどう向き合うかも、自分のことを人にどう伝えていくかも本当に難しい。
自分がこう扱ってほしいと暗に示していったとしても、周囲がそのように扱ってくれるとは限らないわけで、本当に難しい。
ここについては、自分なりの方法がまだまだ確立できていなくて、これからも考え続けていきたいところだと思っている。

幸せという暴力

「結婚」など、世間一般的に幸せという考え方が前提になっているものは、同時にそこから排除される人びとへの暴力になる。誰も傷つかないためには、愛する異性と一緒になるという慣習をやめてしまうか、あるいは少なくとも、それを祝うということをやめてしまうほかない という考察がこの本には書かれている。
ここでひとつの考え方として「さまざまな価値観の尊重」というものがあるが、「私たちは本当に、社会的に共有された規範の暴力をすべてはねのけることができるほどのしっかりした「自分」というものを持っているだろうか」とこの本は続ける。

この話は考えざるを得ない。幸せそうな人を祝福する気持ちは持ちながら、同時に傷つくという経験は、同じ立場の人なら大いに共感できるだろう。
その後に続く解決策、および更なる疑問は、まさに一生の課題である。
人間関係の諸々は、運と縁によるところが大きく、最もコントロールができないところなのに、一番称賛されやすいという理不尽さをはらんでいると思っている。
結果として、ここに翻弄されない生き方を私は目指しているわけだけれど、ここでいう世間一般的な幸せを手にしたら、今のような自分では無くなってしまうかもしれない、という弱さまで見透かされているような気がした。
それでも、偶然的に手に入れたものを維持しながらも進みたいのならば、最大限できることを考えながらしていく他ないのかな、とひとまず今現在は思っている。

相手の意思を尊重するということ

私たちは、近いところにい人が、悪いものに手を出したり、愚かな選択をし続けていても、なかなかそれを止めることができない。
「本人がよければそれでよい」とか何とか、いろいろ理屈をつけて、近くにいる愚かなひとたちに優しくしてしまう。それは面倒なことから逃げているだけでは? という意見を読んで、たしかにと考え込んでしまった。

私は基本的に相手を一切否定しない。それは正直に言うと、遠い人については否定した後の攻防が面倒だからだ。下手なことを言って恨まれたくないし、反撃されたらそれこそ自分が損をする。
近い人については、もしかすると表面上はさほど変わらないかもしれないけれど、「たとえ共感はできなかったとしても、理解はしてあげたい」という考えで接しようと心がけている。なぜならば、それはそのまま私がしてほしいことだからだ。極端な例の場合は未知数だけれど、相手を全肯定することこそ愛だと思っている節さえある。
自分でも愚かだとわかっていて、それでも他にどうすることもできないからそうしてるという場合、それを指摘されるのは、傷口に塩をぬられた気分になる。
しかし、もしも愚かだと認識している状況から、根気よく引っ張ってくれるのだとしたら。それこそ、理解以上に愛がなければできないことかもしれない。
引っ張るところまでを引き受ける覚悟があるならば、相手の行動や考え方を指摘して良いという考え方も持ってみようかなと思う。

この他にも、考えていきたいことが山積みである。
自ら手足を動かして研究をされている方に対しておこがましいけれど、岸さんとは生きていくうえで気になっている部分が似ていると感じている。
岸さんは小説も出されていて、そちらもとても素晴らしい。
これからも考えていることをどんどん教えて頂きたい尊敬する人である。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

  • 作者:岸 政彦
  • 出版社/メーカー: 朝日出版社
  • 発売日: 2015/05/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

音楽:2019年の好きな曲ベスト10

年末なので、一度書いてみたかった1年を振り返る記事を書きたいと思う。
今年読んだ本は、それぞれの記事で考えたことなどを書けて満足したけれど、音楽はなかなか書く機会がなかったので、今回は音楽について。
といいながらも、申し訳ないけれど技術的なことは全然わからないので、ただただ単純に「私的に聴いていて気持ちがいい大好きな曲」を2019年に発表された曲限定で紹介する。
私的ベスト1は書きたいことが山積みのため最後にして、他の素晴らしい曲たちは甲乙つけがたいので、アーティスト五十音順で書いていく。

あいみょん/真夏の夜の匂いがする

言わずと知れたあいみょんさん。もうたまらなく声が好き。
女性に対して「声に惚れ込む」みたいな機会はあまり無いのだけど、あいみょんは聴いていて気持ちのすかっとするかっこいい声で大好き。うらやましい。
この曲は、イントロからサビ前と、その後で曲調ががらっと変わる感じがとても好き。


あいみょん –真夏の夜の匂いがする【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

折坂悠太/朝顔

第11回CDショップ大賞を受賞されていて、好きだなと思っていたところ、ドラマ主題歌として流れたこの曲で、一気にとどめを刺された。ドラマの終盤で流れるたびに、感情を一気に揺さぶられた。
朝顔』を聴くと、単体で表すことのできる感情ではなくて、いろいろな感情が混ざったような、不思議な、だけどすごく満たされた気分になる。


折坂悠太 - 朝顔 (Official Music Video) / Yuta Orisaka - Asagao

ジェニーハイ/ジェニーハイラプソディー

川谷さんの作る曲は、基本的にどれも好みでして。
中でも、ゲス極の『餅ガール』のような、歌詞にわちゃわちゃ感のある曲が好きで、この曲も同じような楽しさを感じる。ダンスもとても可愛いので、MV込みでとても好きな曲。


ジェニーハイ『ジェニーハイラプソディー』

Tempalay/脱衣麻雀

3rd Album 『21世紀より愛をこめて』の6曲目に収録されている曲。
Tempalayは、曲のふわふわ感がたまらなく好きだ。
脱衣麻雀』は、語呂のはまりっぷりが最高に気持ち良い。
「だーつ、いで、まーじゃん」って所かまわず口ずさんでしまいそうになる。

※残念ながら、こちらはMVがありません。

ドミコ/ペーパーロールスター

フェスに行く際、出場バンドを調べていて好きになった2人組のバンド。
実際に見たライブが、もうあまりにもかっこよすぎた。ソリッドで実直な雰囲気にやられて、何度もライブを見たくなった。
調べてみたら、ボーカル&ギターのさかしたさんは、民生さんが好きらしい。嬉しい。
『ペーパーロールスター』は、
Apple MusicのCMで使われていた曲。


ドミコ(domico) / ペーパーロールスター (PAPER ROLL STAR) (Official Video)

パスピエ/グラフィティー

パスピエも、好きな曲がたくさんある大好きなバンド。
『グラフィティー』は、まずイントロで完全に惹きつけられる。
テンポが速くて変拍子満載、高度技術の超絶かっこいい曲という感じ(語彙力)
フェスで生演奏を聴けて、至福の時だった。


パスピエ – グラフィティー , PASSEPIED – Graffiti

Billie Eilish/bad guy

唯一の洋楽。この曲、かっこよくて大好き。
これも浮遊感というのか、ちょうどよく気をぬいたとてもお洒落な感じがする。
ここ1~2年、日本で流行る音楽が好みなものばかりで嬉しい限りだけど、アメリカも(おそらく先に)同じような雰囲気の音楽が流行っているのかなと。


Billie Eilish - bad guy

宮本浩次冬の花

私の絶対神な的存在。ソロでのデビュー曲。
どう来るかとどきどきして待ってたら、渋くて切ない歌謡曲がやってきた。大サビは感極まってしまうぐらい壮大なすばらしい曲。
MVも美しい。YouTubeでもたくさん再生されて、いろんな層に届いていて嬉しい。


宮本浩次-冬の花

millennium parade/Plankton

King Gnuの常田さんによる新プロジェクトの一曲。
初めて聴いた時、あまりに美しい曲で度肝を抜かれた。
どこかのインタビューで、常田さんは音をものすごく重ねると読んだことがあるけれど、いろいろな音が重なったうえで、ここまで繊細で美しい音楽が創れるなんて。クラシック畑でもとんでもない才能をお持ちだからなのか。


millennium parade – Plankton

そして、偶然にもちょうどいい流れで今年のNo.1を紹介。

King Gnu/白日

間違いなく、令和元年の日本の代表曲。そして私にとってもベスト1です。
ブームという波の、本当のど真ん中に乗るという経験は、おそらく小学生以来。
私にとって、今年のトピック=King Gnu沼にはまった年 といっても過言ではないぐらい、King Gnuのおかげでとても楽しい年になった。

曲については、実は去年から好きでした(自慢)。
最初のきっかけは、音楽番組の「バズリズム」で、これから来るアーティストとしてKing Gnuの『あなたは蜃気楼』を紹介していたことだ。
すごく好みな曲だ、と思っていたら『Prayer X』や『Flash!!』など、出す曲の全てがあまりに好みすぎる。これは…!と思い、そろそろ新しいアルバムを聴かなきゃと思っていた頃、「Mステ」に初登場するという情報を得た。
派手でお洒落でちょっと怖そうな人たちが集まったバンドという何となくのイメージを持ったままMステを見た結果、井口さんが気になってしょうがなくなった。
気になって情報をひたすら集め、様々な動画を見漁るということを3日3晩続けた結果、曲の素晴らしさ・一人ひとりの技術・各メンバーのこれまでの音楽との携わり方・キャラクターなど全てにおいて、もうこれは只事じゃないと気づく。
全てがあまりに規格外のとんでもないバンドが現れた…!と桜木と流川を見つけた安西監督かのごとく思った。
アルバム『Sympa』のこと、ライブのこと、メンバー一人ひとりの魅力、毎週楽しみに聴いている井口さんのラジオなど、書きたいことはいくらでもあるのだけど、今回は1位の『白日』について。
もう本当に美しい曲だと思う。MVも本当に美しい。
何も言わなくても、見て聴いてもらえば、全て伝わると思っている(もう多くの人が知っているとは思うけれど)。繊細さ、後悔、切なさ、内なる激しさなど曲に込めた思いが、音楽と映像で全て伝わってくる気持ちよさがある。
半年以上の間、数えきれないぐらい聴いたけれど、いまだに全く飽きる気配がない。特にCメロからピアノ伴奏だけになるサビ、そしてだんだん音が増えていき、極めつきの大サビという流れがあまりにかっこよすぎて、これでもかというくらい心の琴線を揺さぶられる。毎回、聴き惚れてしまう。

そして個人的には、歌詞に重なるような出来事をまさに体感していた時期で、この曲のおかげで、それを乗り越えられたと思っている。
いわゆる寄り添う系の歌詞ではないところが、私にとっては逆にとても励みになった。
後悔しても遅いし、一から始めようとしても結局のところ自分は自分でしかなくて、そうやって生きていくしかないという諦念と覚悟の曲だと思って私は聴いている。
何をとっても文句なしの名曲で、これから何十年と聞き継がれていくんだろうな。
今回は思い入れもあって『白日』にしたけれど、他の曲もとんでもなく名曲揃いなので、これからの活動も楽しみにしてます。


King Gnu - 白日